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「新しい世界文学」シリーズ 読者へのメッセージ

川添裕(本名、古谷祐司)


「新しい世界文学」シリーズ刊行のさい、『出版ダイジェスト』紙(1997年4月20日、1644号)に書いた紹介エッセイです。

 いよいよ「新しい世界文学」シリーズの刊行がはじまる。

 「世界文学」とはすなわち、ワールド・リタラチャー(ワールド・ストーリーズ)のことなのだが、この企画の発想のもとには、CDならごく普通にワールド・ミュージックのコーナーがあるのに、なぜ本はいつも「外国文学」と呼ばれ、国や地域と強く結びついたかたちでばかり語られるのかという疑問があった。

 たしかにひと昔前まで、英文学といえば「英国」の文学であり、米文学といえば「米国」の文学であって、しかも、作家たちの多くは、英語を一義的な母語とするアングロサクソン系の白人であった。

 しかし、人びとがどんどん国境を越え、文化の混淆が進む時代にあっては、そうした「境」は(一方では強固に残りつつも)一面では確実に溶解しつつあるのだ。

 たとえば、イギリス最大の文学賞であるブッカー賞の、ここ何年かの受賞者をあげてみると、ラシュディ(インド)、イシグロ(日本)、クッツェー(南アフリカ)、オクリ(ナイジェリア)、オンダーチェ(スリランカ)、ケアリー(オーストラリア)、ヒューム(ニュージーランド)……といった具合で、むしろ今では、イギリスにとっての「外国人」が圧倒的な多数をしめている。

 「単一民族・単一言語・単一国家」の幻想に生きる日本人は、こういう文学をすぐに「第三世界の文学」などと名づけたり、へたをすると「その他の国の文学」などと意味不明の名づけをして、天からまったく傍流のように扱ってしまうのだが、事態はそんなものではなく、単に英語で書かれた最も優れた小説、最も面白い小説を、当のイギリス人が選んだ結果にほかならない。

 もともと人種の坩堝であるアメリカの情勢はもちろん、近年ゴンクール賞受賞者にシャモワゾー(マルティニク)やマキヌ(ロシア)といった「外国人作家」を輩出するフランスの情勢もまたしかりで、ある意味では日本の文学受容のほうが、自己限定におちいっているのである。

 例えば、インドのボンベイに生まれ、ウルドゥ語と英語の二言語使用者として育ち、ケンブリッジ大学で学んだのちに作家となり、『真夜中の子供たち』でブッカー賞を受賞して以降、旺盛な活動で世界で最も注目すべき作家となっているラシュディは、けっしてどこか特定の国や地域と結びつけて語られる「外国文学」の作家でも、もちろん「イギリス文学」の作家でもなく、やはり「世界文学」としか名づけようのないところに位置する作家なのである。

 あるいはまた、カリブの小島アンティーガに生まれ、ニューヨークでの雑誌ライター生活を経て小説家となり、いまやアメリカではアリス・ウォーカーやトニ・モリスンと並ぶ重要な黒人女性作家と評価の高いジャメイカ・キンケイドがいる。

 あるいはまた、やはりカリブの小国セント・ルシアに黒人と白人の混血の子として生まれ、多言語環境のなかで育ち、詩と劇作を中心とした英語での執筆活動をつづけて、一九九二年にノーベル文学賞を受賞したデレク・ウォルコットがいる。

 例をあげればきりがないが、彼らはそうした異文化や多文化を抱え持つことを創造力と創作のひとつのバネとして、力強い独特のことばをもちいて、いま文学の世界の中心におどり出ているのだ。

 「外国文学」の時代から、「世界文学」の時代へ−−。

 このシリーズでは、そうした多文化混淆の時代の「世界文学」をリードするきわめつきの作品を紹介しようと考えている。

 ふりかえれば1994年10月、折しも出版されたばかりでロンドンの書店に山積みになっていたラシュディの『東と西』を手にとり、日本へ帰る飛行機のなかで、心地よい読書をはじめたところから、この企画ははじまった。

 意想外の想像力に満ちた満ちたこのシリーズが、文化の「境」を越えてフライトをつづけてくれることを心から願っている。

 


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