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見世物研究家・烈伝 internet version

川添裕


この文章は初め、季刊『自然と文化 59』(日本ナショナルトラスト、1999年1月)に「見世物研究家・列伝」のタイトルで掲載されたものです。若干の改訂を加えてとりあえずのinternet versionとします。将来、大幅改訂して図版も加える予定です。以下、本文。

 現代では見世物というと、どこか「うらさびしい」感じがつきまといがちだが、江戸時代には両国や浅草などで盛んに行われ、最もよく親しまれた大衆娯楽のひとつだった。

 華麗にしてスピード感あふれる軽業師・早竹虎吉の曲芸、魚の干物で三尊仏をつくった愉快な「とんだ霊宝」、一目見るだけで七福が得られるといわれた象の見世物など、その種類は豊富でなかなか質も高い。早竹虎吉などは慶応三年(一八六七)にアメリカへ渡り、サンフランシスコほか各地で興行して人気をよんでいるほどだ。アクロバットにせよ、奇妙な細工にせよ、舶来の珍しい動物にせよ、日常生活とは違った驚異の世界を見せたこれらの興行は、庶民ばかりでなく、当時の知識層の関心もひきつけ、随筆・記録類に盛況のさまが記された。

 

江戸っ子の見世物好き

 隠居僧の十方庵敬順(じっぽうあんけいじゅん)は、最も見世物にはまってしまった一人で、文政三年(一八二〇)に、ひまにまかせて両国の見世物小屋をはしごして歩くさまを、「酔狂とやいはん、馬鹿ものとや笑れん、論外といふべし」と、その著『遊歴雑記』にじつに楽しそうに記している。また、江戸落語中興の祖として知られる戯作者・烏亭焉馬(うていえんば)も、大の見世物好きだった。実質的な処女出版が「とんだ霊宝」がらみの『開帳富多霊宝略縁起』(安永六年)で、七十八歳の作が十方庵と同じ両国の見世物を題材にした『開帳見世物語』(文政三年)という一貫ぶりも凄いが、安永七年(一七七八)には、南無阿弥陀仏の六字名号が浮き出る「名号牛」の見世物を、あの平賀源内ともに自ら興行にかけているのである(延広真冶『落語はいかにして形成されたか』平凡社、一九八六、参照)。

 こんな遊び好きの連中とは異なるが、神田の町名主・斎藤月岑(げっしん)は『武江年表』に、おなじく神田の古書籍商・藤岡屋由蔵は『藤岡屋日記』に、それぞれ幕末期の見世物興行を数多く記録している。

 これらの人々にとって、見世物はごく普通の日常的な楽しみだったわけだが、明治に入ると、その様相は変貌していく。ひとつの流れとしては、これまで見世物の名で呼ばれていたものが、例えば曲芸はサーカスへ、動物見世物は動物園へ、珍物は博物館へ、一部の細工見世物はジオラマ、パノラマから活動写真へと、新たに大きく発展しながら別の名前で呼ばれるようになっていく。その一方で、比較的小規模におこなわれている見世物には、違式*違(いしきかいい)条例等で「男女相撲並蛇遣ヒ其他醜体」の見世物として取り締まりの対象となるような類も多く、大道の「万歳又ハ厄払ヒ、セキゾロ抔ト唱ルモノ」と同様に、こうしたものは欧米と肩を並べる近代国家として恥ずかしいといった、よく考えれば意味不明な主張も現れるようになる。

 総じていえば、こうして見世物は、「近代化」の網の目のなかで、主流は新しい名前の娯楽として見世物性を発展させ、残りのものはいわば「小さな見世物」概念のなかに定着していくのである。そして皮肉なことに、見世物研究の歴史は、現実の見世物のこうした変貌とともに始まっていく。明治も後期にいたると、江戸文化全体を再評価する潮流が現れ、そんななか、先覚者たちにより過去の見世物が語られるようになる。

 

先駆者、宮武外骨

 見世物への関心の系譜を語る際、最初にあげなければならない名前は、宮武外骨(慶応三年生―昭和三十年没)である。江戸時代の見世物興行は、随筆・記録類だけでなく、浮世絵や報条(ひきふだ)など、当時のビジュアルメディアに活写され、見世物の様子を知る重要な手がかりとなっているが、筆者が把握するかぎりでは、これらを「見世物絵」の名で呼び、意識的な研究の対象としてとりあげた最初の人物が、外骨だからである。

 外骨は明治三十四年一月、日本初の浮世絵雑誌として知られる『此花(このはな)』を、大阪の雅俗文庫(江戸堀南四丁目・外骨宅)で創刊する。それは、明治後半から起こった浮世絵再評価の気運のなかで発刊された、意欲的な雑誌であった。

 「見世物絵」の記事は、明治四十五年(一九一二)三月発行の第二十枝に見られる。具体的には、創刊以来の連載である「浮世絵類纂」の第二十として「見世物絵」をとりあげ、「見世物ということを広義に解したならば、演劇相撲など、総ての興行事をもふくむのであるが、今茲にいう見世物絵とは…(中略)…一種特異の珍事物として、香具師共が興行した見世物の絵をいうのである」と紹介している。そして、連載の売り物である複製木版画としては、見世物扱いされた子どもの巨漢力士・大童山文五郎の墨摺報条を綴じ込んでいる。

 同じ号の別の箇所に、歌川国芳が描く「活人形絵 安達原の鬼婆」が紹介され、外骨が生人形の錦絵を収集している旨の記事も見えることを考え合わせると、この「見世物絵」の紹介は、かなり意図的なものと見て間違いない。さすが外骨、という感をあらたにする。

 

孤独な巨人、朝倉無声

 残念なことに、外骨の『此花』は、明治四十五年七月の「凋落号」をもって終刊となる。しかしここに、誌名を受け継ぎ、東京で新たに出版する者が現れた。その名は朝倉亀三、号して無声。いうまでもなく、名著『見世物研究』の著者、朝倉無声(明冶十年生―昭和二年没)その人である。無声の『此花』は、同じ年、大正と改元後の十月に創刊された。発行元は東京の此花社(千駄木町・無声宅)である。

 無声の誌名継承はむろん外骨の許諾が前提であり、無声が旧版『此花』の常連寄稿者であったことや、外骨の雅俗文庫の熱心な支持者たる「紙魚の友」資格者五十九人中の一人であったことなどを考慮すると、両者のあいだには確実に、互いに互いを認めあう気持ちがあったものと思われる。また、のちに二人が東京で、上野桜木町十七番の同番地に住んだことも注目される。ともに個性が強く、方法論も異なる二人のあいだに、どのような交流があったのか興味深いが、端的にいうと、互いの学識へ一目置き合う状態から、最後は絶交へと推移したことが知られる。しかし、ともあれ二つの『此花』を通じて、見世物研究の系譜は形式上継承されたことになろうか。

 さて、大正初め頃に、江戸風俗全般に関して無声が多大な知識を持つことは、同好者の間でよく知られており、東京版『此花』は研究の格好の発表場所となった。この雑誌は、大正三年十一月からは誌名を『風俗図説』と改題し、さらに大正五年六月まで刊行される。これらで無声が執筆した中心的分野の一つが、いうまでもなく見世物であった。

 無声の著書『見世物研究』(春陽堂)は、江戸時代の見世物に関する総合研究書としては、今日にいたるまで最良の書であり、筆者自身、そこから得た恩恵は測りしれない。しかし、忘れてならないのは、同書の出版は昭和三年(一九二八)と、無声の死後におこなわれたことである。没後出版となったために、いくつか遺漏が生じたことは、すでに故・守屋毅氏によって指摘されており、守屋氏自身はその遺漏を補足した、復刻版『見世物研究』(思文閣出版、一九七七、序文・郡司正勝)を出版している。その点でいえば、むしろ大正前期の『此花』および『風俗図説』の時代こそ、自己が主宰する雑誌で研究の蓄積を公にしつつ、現在進行形でさらに研鑽を重ねるといった、最も充実した時代だったのではないかと思えてくる。

 実際、『此花』や『風俗図説』の無声執筆記事には、『見世物研究』に未載の記事が多く、また同種の記事でも内容がより詳しい場合もある。そのため筆者は、『見世物研究』には補巻が必要と感じ、これら雑誌記事を中心に、自らの編・解説で『見世物研究 姉妹篇』(平凡社、一九九二 序文・延広真冶)を刊行することとなった。詳細については、同書解説をお読みいただきたいが、『見世物研究』『見世物研究 姉妹篇』の二冊を合わせることで、無声の見世物・大道芸についての研究がよりよく把握できることは、はっきりといえるところである。

 いうまでもなく、これは無声自身の責任ではない。要は、早逝したがために、もっと大きな仕事をしていたはずが、わずかに『見世物研究』だけが公刊されるに止まったのである。にもかかわらず、無声はその一書のみで、他に比肩するもののない巨峰となり、後世には、『見世物研究』に頼るばかりの論文・エッセイ・著作も数多く現れている。しかし、すでに七十年を経たいま、無声本来の壮大な構想をひろく再現しつつ、ある部分は批判的に読み込んでいく努力も必要と、筆者は感じている。また、さすがに長年月を経て、その後の大きな発見、新資料の発掘、基本的な視点の訂正、事実訂正の必要等も、じつは山のようにあって、やや無声が「神話化」しすぎた故になかなか理解されにくいが、発展的な研究はつねに可能なのである。そして、それが本当の意味で、無声の遺志を継ぐことにもなろう。

 例えば、無声には『見世物年代記』の仕事がある。これは、無声の見世物研究全体の「元帳」といえるもので、年代順に文芸・随筆・記録類の見世物関係記事を抜き書きし、若干の絵画資料を貼り込んだ手稿本である。いわば伊原青々園『歌舞伎年表』の見世物版とでもいったらよかろうか。ところが、『見世物年代記』は、東京版『此花』に一部が活字化された以外には日の目を見ることがなく、全十六巻(または十七巻)と推測される完全稿本は行方知れずとなっている。しかし、副本と思われる十四巻本が、東洋文庫に収蔵されており、筆者もこれを閲覧することで、解決できた疑問点は多い。この十四巻本だけでも公刊できぬものかとの思いは、年々強まっている。

 無声はまた「見世物絵」の大収集家でもあった。彼のコレクションは、多くは貼り込み画帖のかたちでまとめられており、その一定部分は、現在、東洋文庫、西尾市立図書館、大阪市立博物館の三つの機関と、ある老舗浮世絵商の所蔵となっている。

 東洋文庫蔵の画帖『観物画譜』(二百二十九点収録)など、所蔵が特定できる画帖の幾何かは、延広真治氏により『日本庶民文化史料集成第八巻 寄席・見世物』(三一書房、一九七六)で公刊紹介されたが、まだ未紹介のものが多い。また、無声は存命中から、画帖を売りにだしていたことが知られ、全体像はなかなかつかみにくい。無声旧蔵品には、しばしば特徴のある末筆の書き込みが見られるが、転変を経て、架蔵となった作品も何点かある。恐らく、無声が目指していたのは、総合的な「見世物版画目録」の作成であり、この点では無声旧蔵品にとどまらず、種々のコレクションを博捜し、さらに範囲をひろげていくことが必要と考えている。

 無声の仕事は知れば知るほど、スケールの大きさに打たれるが、ただ、扱い上で幾つか注意しなければならない点もある。まずひとつは「引用の正確さ」の問題である。無声は著作の全般を通じ、文芸・随筆・記録類からの抜き書きをおこなっている。その引用は、原典と照合すると、必ずしも正確でない場合がある。出典の幅と膨大な量を考えるなら、無理からぬところもあり、そのすべてを照合しろといわれたら誰もが尻込みしてしまうが今後はやはり留意すべき点であることは間違いない。

 また、もうひとつは図版の問題である。少なくとも大正前期までは、木版制作の技術は今日と比べれば相当に得やすかった。そのため『此花』などでは、写真製版ではなく木版複製の図版が相当用いられている。ところがその際、手間を省いて文字彫りを省略する、図様を簡略化する、二枚続き錦絵の半分(一枚)だけを取りあげるといったことがおこなわれており、原図と異なる場合が多い。この種の図版は困ったことに『見世物研究』でも用いられている。それは場合によっては「架空の図」なのであり、大きな間違いを起こしかねない。白状すれば、筆者自身これで一度失敗したことがあるが、つい最近も、当該問題を含む、いろいろ誤りの多い近世史家の「論文」を目にしている。これまた無声の過失というより、後世の人間の責任だと思うが、ともかく、大いに留意すべき問題である。

 筆者は、無声を敬愛してやまぬ人間であり、いつの日か無声の伝記が書けぬものかとさえ考えている。本当に凄い人物だと思う。上記のことも、そしてこれから述べることも、逆にそんな人間だからこそ指摘できるのだと、ご理解いただければと思う。

 さて、こうした「偉人」が、社会的に「好人物」であったかどうかは、また別問題であった。かつて延広真治氏が、長命であった未亡人の朝倉はな氏へ電話をかけたところ、無声のことを「変人」の一語で片づけ、とりつく島もなかったことは既に報告されている。また、没後すぐ出た石川巌(耽奇郎)の追悼文などは、「渠は全く個人主義の権化ともいふべき人物で、而も個人主義の附物たる偏狭であった為めか交友間には兎角好感を与へなかった」云々と、とても追悼とは思えぬ調子である。研究への熱意ゆえの行き過ぎはあったようで、どうやら一時期の勤務先であった帝国図書館蔵書の名家蔵書印を切り取る行為に及んだらしく、少なくとも外骨は、その行為を唾棄すべきこととはっきり指摘し攻撃している。

 こうなると、もはや何ともいいがたいところだが、それだけ執念の「恐るべき研究」とついポジティブにとってしまう筆者は、やはり無声に少し甘いのかもしれない。ともかく、とんでもない人物であることだけは確かである。

 

珍物大好き、藤沢衛彦

 さて、無声はこれぐらいにして、次に藤沢衛彦(明治十八年生―昭和四十二年没)をとりあげよう。オーソドックスな研究というより、とにかく変わったもの好きの民俗学者・伝説研究家として者名な衛彦は、見世物研究史のうえでは『変態見世物史』(文芸資料研究会)の著者として知られる。その刊行は、無声の没年である昭和二年(一九二七)のことで、「見世物」の名がつく単行研究書としては、最初の書の栄誉を担うことになる。内容的には「変態」の字に象徴されるように、畸人・珍動物・珍植物の見世物中心の記述となっており、いい意味でも悪い意味でも、珍物趣味の好事的内容の本といえ、率直にいって事実レベルでは非常に誤りの多い本である。

 思えば、この前後数年はなかなか不思議な時代で、『変態資料』『グロテスク』『風俗資料』などといった雑誌が数多く刊行され、そのなかで女相撲や人体異形の見世物などが、しばしば紹介されている。この『変態見世物史』を筆頭に、昭和七年(一九三二)刊行の松浦泉三郎『好色見世物志』(風俗資料刊行会)も、そんな時代の産物といえるだろう(なお、この書は同時代の珍奇見世物の具体資料としては、抽象的な藤沢衛彦よりもはるかに役に立つ)。見世物の描写が多い伊藤晴雨『いろは引 江戸と東京風俗野史』全六巻(弘文館、六合館、城北書院)の刊行も、昭和二年から七年にかけてのことであった。

 さて、衛彦で筆者が注目しておきたいのは、彼もまた打ち込んでいた「見世物絵」のコレクションである。外骨からはじまる見世物研究の系譜は、間違いなく「見世物絵」をひとつの柱とした研究の系譜なのである。衛彦はそれらを『日本版画美術全集第六巻 民俗版画』(講談社、昭和三十六年)、「日本見世物史」(『講座日本風俗史』第七巻 雄山閣出版、昭和三十四年)など、自己の著作で積極的に掲載紹介しており、貴重な図版も多い。各種の資料全体で恐らく数千点、「見世物絵」だけで数百点あったと思われるコレクションは、千葉県鴨川市に寄贈された摺物コレクションなど一部を除くと、残念ながら、ほぼ散逸したことが知られる。見世物関係の多くの部分は、没後かなり年月を経たのち、ある浮世絵商の手で名古屋の市で売り立てられ、これも転変を経て、何点かが架蔵となっている。

 

小粒で辛い、古河三樹

 古河三樹(明治三十四年生―平成七年没)は、『見世物の歴史』(雄山閣出版、一九七〇)の著者である。

 この本はのちに改題して『図説庶民芸能―江戸の見世物』のタイトルとなったが、内容的には同一である。三樹はたまたま、筆者がかつて勤務していた出版社、平凡社の戦前の大先輩に当たり、筆者が入社した二十年少し前には、四谷駅上の古河書店主として、ときに雑誌の配達に見えたりしていた。非常に小柄なおじいさんだったので、印象は強い。

 当初は不覚にも、この古河書店主と『見世物の歴史』の著者とが結びつかなかったこともあり、ちゃんと話をしたことは一度もなくしたがって影響関係はまったくないのだが、いま思えばやや残念ではある。「平凡社に住んでいる」という伝説がある荒俣宏氏とも、三樹を特集した『月の輪書林 古書目録九』(一九九六)を手にしながら、そんな話をした覚えがある。やはり先輩で、サーカス好き・見世物好きの海野弘氏はどうであったのだろうか。『見世物の歴史』は、著者自らが率直に書くように、内容の過半は無声の『見世物研究』の流用、書き換えである。無声の焼き直しが数あるなかでは、それを正直に記している点がむしろ珍しい、気持ちのいい本である。三樹のオリジナルは、本のうしろの部分、明治以降の歴史や自身の見聞のところにあって、量的には数十ページで、前記の伊藤晴雨を参考にした部分もあるが、所々に知見を開かれる記述がある。それは無声とはまた違った視点からの、見世物に対する見方である。三樹の出発点は、当人の記述にしたがえば「青年時代に放浪の旅先で、世界各国人の男女小人島の一座に会い、身長わずかに四尺、いわば因果物の私は一座に加わりたくて大へん憧れた」にあり、愛着と「辛さ」の両方の思いに支えられていることが、その特徴といえるもかもしれない。

 

追い風よ吹け

 この二十年ほどでいうと、すでにふれた、延広真治氏(『日本庶民文化史料集成第八巻 寄席・見世物』)および守屋毅氏(復刻版『見世物研究』)の仕事の意味は、研究史のうえできわめて大きい。総合的な見世物研究の場で、最も頼りにできるのが結局、現状でいえば無声であることは衆目の一致するところだが、これら二著が一九七六年、七七年と続けて公刊されたことで、比較的手軽に、無声の仕事にふれることができるようになった。その後の世代の多くは、両書で実際に江戸の見世物を知り、それに触発されながら仕事をしていったのである。筆者自身もそんなひとりで、個人的には、とりわけ延広氏からいろいろな機会に沢山のお教えをうけてきた。また、酒を飲むとすっかり「悪童」の守屋氏と、騒々しく見世物の話をしたのは楽しい思い出である。

 筆者の感覚では、上記二つの基本資料に刺激をうけながら、それぞれの分野で別個に見世物への強い関心を抱いてきた人々が、一九九〇年前後から、良い仕事を次々と世に送り出してきた感が強い。美術史の木下直之氏しかり、建築史の橋爪紳也氏しかり、社会学の鵜飼正樹氏しかり、芸能史の樋口保美氏しかりである。また、やや旗色は異なるが、日本史の黒田日出男氏も、この分野に関わる意欲的な優れた仕事をしているし、竹下喜久男氏、神田由築氏、横田則子氏、久留島浩氏、香川雅信氏など、近世史家や民俗学者にも面白い仕事が現われ出している。加えてある時期からは、興味を持つもの同士が一部連帯し、情報交換や共同企画も少しずつおこなわれるようになった。興行の現場では、この十年で木下光宣氏なく、吉本力氏なく、安田里美氏なく、ますます衰退の兆しは強いが、見世物、あるいは見世物文化、見世物的なるものへの関心という点でいえば、どこか「追い風」は吹いているようにもみえる。また、いうまでもなく見世物は、現在の仮設興行の世界だけに限定されるものではまったくない。

 少なくとも、近世後期の見世物を見るかぎり、それはじつに奥深くさまざまな視点からの読解が可能だし、そこから発展した近現代の「見世物文化」という視点を持つならば、いくらでも生き生きとした研究、芸能現場との交流も可能だろう。筆者自身は一九九八年の夏、「見世物データベース」のコーナーを持つウェブサーバー、RAKUGO.COMを立ち上げた。今後はそのなかで幾つかのデータベースを連携させていく構想である。沈滞ムードに固まる世の中だからこそ「見世物への追い風よ吹け」、近頃はそんなことを考えているのである。

 

付記―戦後の見世物研究史に関しては、復刻版『見世物研究』の守屋毅氏解説、および『見世物研究 姉妹篇』の川添解説に詳しくふれられており、ここでは重複を避け、大きなタイムスパンで記した。先学の故・郡司正勝氏、また、小沢昭一氏ほか多くの方々の仕事に正面からふれ得なかったのは、他意あってのことではない。前記ふたつの解説を併せてお読みいただければと思う。

 


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