ギネスの街
川添裕
ダブリンの空港に着いて車で町へ向かう。すると、まず「Welcome to Guinness!」という横断幕が旅人を迎えてくれる。
んー、さすが「ギネスの街」という感じである。
念のためにいっておけば、ギネスをイギリスのビールと勘違いしているひとが意外と多いが、ギネスといえばアイルランド、しかも、アイルランド人が「世界の中心」と呼ぶ首都ダブリンのビールで、1759年にダブリン郊外で発祥という、折り紙つきの由緒正しいビールである。
ここで缶やビンのギネスを考えないでほしい。あれはまったく別物で、ギネスはとにかく「生」(ドラフト)につきるのである。
本場ダブリンで、その名にし負う生ギネスに初めて酔いしれることが出来たのは、1993年10月、フランクフルト・ブックフェア(FBF)でのハードで多忙な版権ビジネス終了後、ほっとして少し足を延ばし、アイルランドを訪れたときのことである。平凡社の同僚で1年先輩の関口秀紀さん(のち編集の役員)と一緒だった。トリニティ・カレッジにほど近いブルームズ・ホテルに宿をとり、早速、宵闇の街に出てパブに入る。指南役は知人に紹介されたマラキさん夫妻で、まずはギネス1パイントである。
ところが、これがなかなか出てこない。ぼくの気配を察して、マラキさんがすぐに解説してくれた。要するに、生ギネスは入れ方が肝腎だというのである。まず、パイント・グラスの7分目を少し過ぎるあたりまで注ぎ、泡が落ち着くのをしばらく待つ。この「しばらく」というのが、じつは相当に長いのである。そして、泡をこわさぬよう、荒立てぬよう、静かに同じペースで注ぎ足して、グラスいっぱいまでいけば、それで完成である。
こうして出来上がるのが、あのクリーミーで繊細な絶品の泡である。グラスを傾けると、唇が柔らかなものにふわっと包まれ、と同時に、ほどよい冷たさの深い香りの液体が、舌からのどへと流れこむ。
うまい!
ダブリンのまともなパブならみなこの入れ方で、以降、数日間、昼に夜に生ギネスを飲み続けた。
ジェイムズ・ジョイスの「Counterparts」(短篇集『ダブリン市民』の一篇)の主人公であるファリントンが、仕事のいざこざの憂さ晴らしに、ギネス一杯から始まる癖の悪い酔っぱらい方をしていたのを思い出し、ちょっと自戒したが、翌日、それではと波荒い海辺に建つジョイス・タワー(記念館になっている)を訪ね、冷たいしぶきを浴びたあと飲んだのは、やっぱりギネスだった。
荒波から西アイルランドのアラン島が頭に浮かび(フラハティの傑作ドキュメンタリー映画がある)、『アラン島』のエッセイもある劇作家J・M・シングが描く海辺や谷間の荒涼とひとびとの生命力を思い出し、アラン島はちょっと遠いけれど、せめて、シングやイェーツらが20世紀初めに拠った、ダブリンのアベー座前だけでも歩いておこうとなどと考えたのは、20年近く前の学生時代の不勉強を上塗りする気分だったが、まあそれも、現地だからこそ思い出させてくれた旅の恩恵というものには違いない。そして結局、ロンドンへ向かう空港でも、時間を気にしながら名残のギネスを味わった。
アイルランドの土地の荒涼が、しばしば大飢饉を生み、多くの「移民」を世界に送り出したことは周知の歴史事実である。とくに1840年代の後半は、死者が数十万人という空前の「じゃがいも飢饉」で、大量の移民が海外へ渡っていった。イギリスの大都市での移民たちの様子は、ビクトリア朝画家たちの一時期の画題になっているが、渡航先としては、アメリカ、オーストラリアが多く、19世紀後半を通じて海外への人口流出が継続する。
最近知ったことだが、アメリカにはダブリンと名のつく街が9つもあるのだそうで(ジョセフ・オコーナー『ダブリンUSA』、茂木健訳、東京創元社、1999)、そんなところからも、移民の規模を推し量ることができる。よくいわれるニューヨークの警官にアイルランド系が多いことや、まさに「じゃがいも飢饉」の時代にアメリカへ移住してきたケネディ家の伝説なども、想起されるところである。
面白いのは、わがギネスも、アイルランド人とともに世界を移動したことである。ギネスの歴史をひもとけば、アメリカに初めてフランチャイズが出来たのが1858年、オーストラリアに初めてフランチャイズが出来たのが1869年で、アイルランド移民の大移動とおおよそ時期が一致する。アメリカやオーストラリアの側から見れば、ギネスは移民がもたらした新しい文化ということもできるだろう。
ダブリン郊外に生まれたジョイスが大学を卒業し、極貧のパリ生活を経て、いったん帰国ののちに、1904年以降は四半世紀にわたり、ヨーロッパ中を転々としたことはよく知られるところである。さらに、やはりダブリン近郊生まれで、やはりヨーロッパ各地を遍歴したサミュエル・ベケットを加えるならば、アイルランドの天才作家には、明らかに「移動」と「亡命」の色が濃厚だ。
むろん、それは作品の創造の質に関わる問題であり、恐らくは何も大作家だけに限らず、JFKの先祖も含め、あらゆるアイルランド移民たちが直面した「生と創造」の問題であったとも思えてくるのである。
ところで、ギネスの樽が初めてイギリスへ渡ったのは非常に早く、発祥10年後の1769年のことである。だから、イギリスでの歴史は古いし、イギリスに醸造工場もあるのだから同じ味でいいはずだが、なぜかロンドンでは、あの絶品の泡にお目にかかったことがない。
その後、明治通りの原宿交差点から少し渋谷方向へいったところに、ダブリンのカフェBewley'sの東京版が出来ていると聞けば足を運び、新宿のライオン会館2階に、その名もThe Dublinersという店があらわれたと聞けば出かけ、生ギネスを試したが、やはりどこか違っている。なかには、生ギネスが置いてあるといっても、あっという間にジョッキがでてくる驚くべき店もあって、それにくらべたらこの2軒は相当にいい線だが、あと一歩、泡が違うような気がしてならない。ギネス本社によれば、あくまで中味は同じだというのだが。
あるいはこれだけは、「文化の核」ならぬ「文化の泡」「風土の泡」の違いなのかもしれないとも思う。しかしそれでも、生ギネスを飲める店が増えつつあるのは、どこか楽しい気分である。
生ギネスを指南してくれたマラキさん夫妻は、数年前、ダブリンからアメリカへ移り住んだ。新しい旅は、いまも生まれている。さあ、ダブリンっ子も、旅人も、日本の酔っぱらいも、そして、ギネス発祥以前に亡くなった『ガリバー旅行記』の作者にしてダブリン・セントパトリック大聖堂主席司祭のスウィフトも、
Have a pint of Guinness !