back
トップへ戻る

 

旅の軌跡としての書物

川添裕


元は丸善から刊行の『世界の古書店 II』(丸善ライブラリー159、1995)で執筆したエッセイです。改訂を加え、internet versionとします。


 

 10月の20日間ほどをヨーロッパで過ごすことが続いていた時期がある。といっても、べつに遊びにいくわけではなく、ぼくがなりわいとする出版の仕事の関係で、毎年フランクフルト・ブックフェア(FBF)に参加していたのである。そして、たいていその前後にイギリスやフランスあるいはスペインの出版社などを訪ねるのだが、本好きかつ骨董好きのぼくの足は、本務スケジュールの隙間に時間を捻出して、各地の古書店やアンティーク・ショップへと向かうことになる。

 ぼくが対象とするジャンルは見世物・大道芸・サーカスについての資料で、これはもはや後戻りできないくらい深入りしてしまい、ことに江戸時代の見世物興行についてはささやかながら研究を公にする機会ももってきたので、親しいひとからはよく「もうひとつの本業だね」などと冷やかされている。しかし、当の本人はじつは江戸時代の見世物だけにかぎらず「見世物の世界史」をいつかまとめてやろうという構想をもっていて、毎年秋の仕事の旅はその資料探索の機会をあたえてもくれるのである。

 考えてみれば、フランクフルト・ブックフェアだけで優に千冊は超える新刊を実際に手にとりつつ各国の出版社と翻訳権の売買あるいは提携出版の可能性について話し合い、そしてロンドンにいけばいったでディロンズやハチャーズ、フォイルズ、ウォーターストーンなどといった主要な新刊書店を総ざらいして、買った本でいや増した荷物の重さに腕力で耐えるか、あるいは日本直送の代金に懐で耐えるかの二者択一をせまられながら、その状況下に、さらにあちこちの古書店へも出向こうというのだから、ぼくの旅はまさに本から本への旅、本づくしの旅というほかなく、われながら「ごくろうさん」という気がしないでもない。

 けれど、そもそも本を読み、本にふれるという行為が、ひとりの人間の狭い世界を開いていく「旅」のようなものだとするならば、旅のなかに幾重にも旅をかかえこんだぼくの旅は、本好きにとって最も幸せな旅なのかもしれないとも思う。そして強調しておきたいのは、もちろん世界中の多彩な新刊を眺めているだけでも「一国家・一民族・一言語」幻想の日本列島をはるかに遠く離れることはできるのだが、そこに古書が加わることで、さらに一段と旅の時空が重層的で彩りあざやかなものになるという点である。なぜなら、すでに何らかの歴史を背負った古書は、その存在自体が「旅」の軌跡にほかならないからである。

 さて、前置きはこのくらいにしておこう。以下はなるべく具体的に、そしてひとり悦に入ってしまうマニア特有の愚と恥も承知のうえで、ひとつの旅をふりかえりながらいくつかの古書店を紹介することにしたい。

 

 1994年10月の旅はチェコのプラハからはじまった。平凡社で当時、年若い同僚だった足立亨さん(のち独立してアダチプレス)、岡本洋平さん(のち独立して岡本デザイン室)と一緒だった。プラハへいったのは千野栄一さんのエッセイ集『プラハの古本屋』(大修館書店)の影響や、カフカが生まれ育ったユダヤ人街をみたかったこと、また公的には別の同僚が翻訳出版を検討していた、クンデラ以上との評価もあるチェコの作家ボフミル・フラバル(『あまりにも騒々しい孤独』は寄せ場にだされる古書やゴミをめぐる迷宮的な物語で、ぼく好みでもあった)を中心に、現地の出版状況にふれることが目的だったが、まず圧倒的な第一印象としては、とにかく本の値段が安いことに驚かされた。平均的なハードカヴァーの新刊が15〜30コルナ(日本円で50円から100円見当)、したがって古本の値段もそれに連動しきわめて安いのである。

 プラハへは土曜の夜遅くに到着し、あくる日曜の朝、旧市街の中央広場にあるティーン教会(14世紀ゴシック様式)で幸運にもミサにあずかって、古い石畳の街を気分よくそぞろ歩く。店はみな閉まっているが、ショウウインドウを楽しむことはできる。すると、ある、ある、ありました。カレル・クシェネクという名の古書店で、ウインドウに猛獣つかいの芸人とおぼしき古色の版画がかかっていることからして、何かありそうだというオーラがぼくの五感につたわってくる。古物ファンならすぐわかってくれると思うのだが、こうしたオーラはたしかに存在するのである。


 明日の夕方にはもうフランクフルトへたたなければいけないので、この店が月曜も休みだったりしないことを確認してほっとしつつ、開店時間と場所をしっかり頭にいれてその場をあとにした。

 翌朝、13世紀城壁の名残である東側の門塔、通称「火薬塔」と旧市街広場とを結ぶツェレトナー通りを歩いて、そのほぼ中ほどにあるこの店を訪れる。まずはウインドウの版画をおろしてもらい、手にとってじっくりながめる。19世紀中頃の製作といったところか。腕組みをした猛獣つかいの足下にライオン、トラ、ヒョウなどがいて、Van Ambourghという芸人の名がしるされている。この名前どこかでみたような気がするのだが、すぐには思いだせない。じつは、9日後のパリでこの名に再会することになるのだが、もちろん、まだそんなことは知るはずもない。ともかく買うことに決めた。値段は800コルナ(日本円で2800円見当)であった。

 人心地がついたところで、ゆっくり店内をみまわす。大半はチェコ語の本だが、この国の歴史を反映してドイツ語の本がかなり多いし、ロシア語、英語はもちろんフランス語、イタリア語、スペイン語が散見されるのは、さまざまな人びとの軌跡が交錯した都市プラハならではである。店の一画には18世紀以前の古刊本もまとまっていて、つい手がでそうになるが、チェコ語もドイツ語もラテン語も不自由なことを考えて思いとどまった。

 その夕方、まだ十数日の旅程を残しているというのに、なぜかもう仕事が終わったような気になりながら、猛獣つかいの版画を携えてフランクフルト入りをした。夜のザクセンハウゼンの酒場で名物のリンゴ酒をかたむけ酔いがまわるうち、いまからチェコ語を習ってプラハに住めば物価も安いし優雅な生活ができるかもしれない、しかしあんなに本が安いと次々買ってしまって大変なことになるだろうな、そういえば千野栄一さんも数カ月前の『図書』で外語大を定年退職したときの本の引っ越しの苦労話を書いていたっけ、本好きというのは読めるはずもない量の本をかかえてしまう喜びと悲しみがわかる人のことに違いないなどと、ぼくの思考は梯子酒のようにすすむのであった。

 

 さて、フランクフルトのブックフェアは終わってみると、正味5日間で50を超える海外の出版社とミーティングをもっていた。1日平均で10社強、例年どおりハードなスケジュールであった。日本のほとんどの出版社は翻訳権を買うだけだが、ぼくが籍を置く会社は自社出版物の売りこみにも意欲的なので、そのための展示スタンドの設営と撤収が2日間これにくわわる。しかし、世界中から六千もの出版社が集まるなどという機会はほかにはないので、約束のミーティングとミーティングの合間をぬって、さらにあちこちの展示スタンドに「フリ」で出向いてひたすら本を手にとり続けることになる。したがって、昼間はほとんど会場を出た経験がなく、夜の酒場やレストランなら話は別だが、市内の古書店について人に話すような知識はもちあわせていない。仕事上の成果もここでの話題ではないので、フランクフルトは早々に切りあげて次の都市パリへ向かうことにしよう。

 肉体的にはかなり疲れているはずなのに、不思議な昂揚感を維持し続けている状態でのパリ滞在には、その昂揚感を持続させてくれるうれしい書物が待ちうけていた。まずは仕事で訪問したベケットを育て、デュラスを産み、最近ではギベールを世に紹介したミニュイ社の社主ジェローム・ランドン氏の会談での発言(「フランスの若い作家はみな未熟です。しかし現在の出版界と読者はそれをすぐにうけいれてしまう。ギベールも未熟なままエイズで死んだ。だから、いまわたしが自信をもって日本で出版をすすめられる作家などいませんよ」)を、同じ出版人として噛みしめざるをえなかった翌日、自由な時間を得て、ミニュイ社からほんの二、三十メートルの距離にあるサンジェルマン・デ・プレの交差点にふたたびたち、今度はセーヌ河に向かってボナパルト通りを歩きだす。この通りに古書店が多いことを聞いていたからである。

 新刊のディヴァン書店にたちよって、すぐその先をみると、ウインドウにコメディア・デラルテの仮面をかかげた店がみえる。その名もボナパルト書店。入ってみると、これが演劇などパフォーミング・アーツを専門とする古書店であった。サーカス関係だけで棚2段分の本があってうれしくなってしまったが、一番ありがたかったのは、パリ国立図書館が所蔵するサーカス・見世物関係の版画資料をカタログにした本であった(Le cirque: iconographie. Paris, Bibliotheque nationale, 1969. )。全部で618点の資料が目録化されていて、図版が8点、わずかながら文献リストもついている。基礎資料としてこういう本ほどありがたいものはない。

 早速プラハから気になっていた猛獣つかいの名を調べると、Van Amburghとスペリングが少し異なるが、同一人物とみて間違いない資料が見いだせた。動物見世物の項に2点の石版画資料があり、1838年の版刻、1839年8月のショウの際に作られたものなどと記述されている。ちょうど眼の前にある他の書籍も参照すると、1838年にアメリカから猛獣をつれイギリスにやってきて、翌39年にはロンドンのドルーリー・レインで興行していることが知れた。そうだ、この人物は19世紀半ばの数十年間、サーカスなどで活躍した有名な猛獣つかいだったと思いだし、いささかの興奮を禁じえず、本書をふくむ書籍数点と、人間ピラミッドと犬芝居の版画ももとめてこの店をでた。

 「ものがぼくを呼びよせるんですよ」とは、かの荒俣宏さんの名言だが、何ともいえぬ不思議な気分で、かつてこの猛獣つかいも活躍したロンドンの地へと向かった。

  

 ロンドンでは美術書出版の名門テイムズ・アンド・ハドソン社を訪門するなどの公式日程を終え、いさんで訪れたのはピカデリー・サーカスにほどちかいサックヴィル通りのサザラン書店(ヘンリー・サザラン書店)である。

 そもそもふりかえれば、ロンドン界隈の古本屋事情をぼくに指南してくれたのは荒俣宏さんであった。荒俣さんとは以前フランクフルトのブックフェアに同道し、さらにバルセロナへも足をのばしてともに骨董屋で散財をするという前科があり、ぼくの収集の筋もご存知である。「そうですね。古谷さん(というのはぼくの本名です)に向くものは、なかなかないですよ。昔はセシル・コートにキッチュなものを扱う店がいくつかあったんですが、いまはヘイ・オン・ワイまでいかないとね。でも、ヘイ・オン・ワイはロンドンから相当遠いから、最低でも丸一日時間がないと無理でしょう。時間がなければ、オーソドックスにサザランあたりからはじめて、バーナード・クオリッチもすぐちかくだからのぞいてみたら……」というわけで、はじめてのロンドン滞在の時も、結局時間がなくて立ち寄ったサザラン書店ではあったのだけれど、運よくそこで綱渡り芸人とパントマイム役者を描いた19世紀中葉の色刷りチャップブックとめぐり会い、かつまた同店スタッフのジョン・スプレイグ(John Sprague)氏と少しく話をする機会をえて、以来なんとなく縁ができた店なのである。

 今回の訪問では勤続17年というそのスプレイグ氏に話をきく約束がしてあって、朝の2時間半あまりを割いてもらったので、その要約を中心にサザラン書店を紹介することにしよう。

 サザラン書店がロンドンで商売をはじめたのは1815年のことである。創立者はトーマス・サザランで、当初は本だけでなく文房具とラム酒やブランディなどもあつかっていた。じつはもっと古く1761年にサザランの一族がヨークで書籍販売業をはじめているので、そちらの年を創業とすることもできるのだが、いずれにせよ、イギリスで最も古い部類の現存古書店であることは間違いない。とにかくいまでも店の一部には、ヴィクトリアンの書架がそのまま使われているというくらいなのだ。1832年に息子のヘンリー・サザランが12歳で家業にくわわり、さらに1893年からは孫のヘンリー・セシル・サザランに経営がひきつがれて発展していくが、1928年のセシルの悲劇的な交通事故死をへて、現在では家系が途絶え、書店にその名を残すのみとなっている。

 この間の主な業績をしるすと、1768年のヨークでのローレンス・スターン蔵書の購入を嚆矢として、1878年のチャールズ・ディケンズ蔵書の一括購入、1920年のニュートン蔵書(一部)の発見と購入などと華々しいもので、さらに1881年には、鳥類博物画のジョン・グールドのすべての版画と版権を買いとっており、これはいまでもサザラン書店の主要営業項目のひとつとなっている。現在、文学などの一般書のほかは、絵本、挿絵本、建築、博物学、旅行記に力を注いでいる。

 近年の常連客にはエドワード・ヒース、トム・ストッパード、アレック・ギネス、ボブ・ホープ、アリステア・クックらがいて、いくつかのヨーロッパ王室の御用達もつとめたというから、恐れ入ってしまう。しかし、こうした格の店には珍しく玄関でブザーを押して鍵をあけてもらうのでなく、そのまま入っていけるオープンなシステムだし、「本の前での平等」というか、探求書の内容を率直にしめせば、誰に対しても気さくかつ丁寧に相談にのってくれることはいうまでもない。

 ぼく自身もはじめて訪れた時、見世物だ大道芸だサーカスだといってスプレイグ氏に「トリッキーな収書ジャンルだな」と微苦笑されたが、彼はすぐに数冊の関連書を探しだしてくれた。全般にロンドンの一流古書店のアドヴァイス能力の高さ、知識の豊富さは特筆大書されるところで、その時点で在庫しない探求書への対応もしっかりしている。

 いま急速に人種混淆がすすむロンドンの街をいく人びとを見ていて、大都市はどこも同じだなと感じることはあっても、イギリスの伝統を感じることはあまりないが、サザラン書店の古色蒼然とした店内で旅行記や博物学などの古書を眼前にしていると、「やはり大英帝国」とつい感じてしまう。それは文化の澱(おり)であり、檻でもあるのだが、そこにまたひとつの「旅」の軌跡を見いだすのである。

 さて、ロンドンから横浜の自宅に帰り、荷物整理などほったらかしに、まずはくだんの猛獣つかいVan Amb(o)urghの名を調べはじめる。トーマス・フロスト Thomas Frost の『サーカス・ライフ、サーカスの有名人士たち Circus Life and Circus Celebrities』(1875)ほか数冊の参考書を書架からとりだしてみると、やはりかなり記事は多い。どうやらオランダ系のアメリカ人で、Amburgというスペリングもイギリスの文献には見えるので、おそらく名前の読みはヴァン・アンバーグと思われるが、興行した地域地域でアンバー、アンブール、アンブルクなどとも呼ばれたことだろう。1838年にイギリスにわたり、はじめは有名なアストリー・サーカスに加わるが、のちさまざまな興行師と組んでヨーロッパ中を巡演、大いに人気を博し、1870年代には自分のサーカス団をもっている。

 1820年代はじめの生まれと推定されるこの人物、10歳のときニューヨークの劇場で猛獣を自由にあやつり観客を驚嘆させたというが、そんな動物との交感ができるのは、かれのおじいさんがアメリカ・インディアンの魔術師だったからだという説もみえる。こうなると話はどんどんボルヘス的にひろがっていくのだが、それを誘うかのように、猛獣つかいの版画はいまも原稿を書くぼくの横顔を見つめている。

 

プラハ:カレル・クシェネク書店
 Antikvariat Karel Krenek : Celetna 31, Praha 1

パリ:ボナパルト書店
 Librairie Bonaparte: 31, rue Bonaparte, 75006 Paris

ロンドン:ヘンリー・サザラン書店
 Henry Sotheran Limited: 2-5 Sackville Street, Piccadilly, London W1X 2DP


Copyright (C) 1995, 1998, 2024 by Yu Kawazoe.