『コミュニケーション事典』の発想コミュニケーション辞典 コミュニケーション論
川添裕(本名、古谷祐司)
平凡社刊
中世の社会関係、江戸時代のコミュニケーションから、
鶴見俊輔・粉川哲夫編
定価:本体6,400円
A5判 630頁 1988.8
現代のマスコミュニケーション、デジタルメディアまで、
人間コミュニケーションを総合的に捉えた日本初の事典。
「挨拶」から「笑い」までの交流の知を縦断する500項目。
巻頭の「動詞による項目ネットワーク」と「分類項目表」は、
コミュニケーションをめぐる世界のひろがりを時代を超えて示す。
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「communication」ということばを、カタカナの「コミュニケーション」ではない日本語に訳そうとすると、それが非常にむずかしいことに気づく。説明的にいえばおよそ「ひとが気持、感情、意見、意思、思考、知覚、情報などを伝え合うこと」となるのだが、一語ではどうも具合よく当てはまるものがない。あえていえば、「意思疎通」「伝え合い」「通じ合い」「交わり」「やりとり」といったあたりだろうか。だからカタカナ語で「コミュニケーション」にしているのだ、といえばそれまでの話だが、しかし、それでは思考のないままに単純な置き換えをしているに過ぎないところがある。思うに、「communication=コミュニケーション」とするのではなく、他の訳語の可能性や正面からの説明を探ってみることは、コミュニケーションとはそもそも何かを考えるための、よい契機になるのではないかと思う。
考えてみれば、コミュニケーションという行為そのものは、人間の最も基本的な活動であるから、例えば日本の中世でも近世でもおこなわれている。ところがカタカナ語を用いると、どこかで「近代的」「現代的」なのものと意識してしまう傾向があり、その意味範疇、概念範疇から多くの事柄がこぼれ落ちてしまうのである。「コミュニケーション」の語を聞いて現代人がまずイメージするものは、おそらくテレビ、ラジオ、新聞、雑誌、本などのマスコミ媒体と、ビデオ、パソコン、ネット、ケータイといった一群の機械メディア、情報機器メディアのはずで、それらは今日のコミュニケーションの重要な一側面とはいえ、むろんすべてではなく、もっと広くトータルにコミュニケーションをとらえる必要を感じるのである。
本書の宣伝コピーでは、「中世の社会関係、江戸時代のコミュニケーションから、現代のマスコミュニケーション、デジタルメディアまで」と謳い、時系列、歴史系列での広がりを示したが、じつはその時系列とは、原理的には原初人類の身体存在や身体コミュニケーション、人と人の出会い、集団化、敵対といった、人間の始源に遡るものといってよい。その意味では、歴史の中からコミュニケーション要素をひろうといったチマチマした発想ではなく、歴史そのものをコミュニケーションとして捉え直すといった発想を含むものであった。企画の思いつきは直観でしかなく、曖昧で非論理的な部分もあるが、およそこんなところから『コミュニケーション事典』の企画ははじまっていった。
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当時(1986年)の平凡社は、長い年月をかけて新規に編集した『大百科事典』(編集長は加藤周一氏。のち『世界大百科事典』と改称)の刊行が終わったばかりの時期で、その成果をベースにして、いくつかの単行事典の企画を進めようとしていた。具体的な方法としては、百科事典からテーマ毎に項目を抜きだし、それに加筆修正を加えるとともに、新規に必要な項目も大幅に書き下ろしで追補して、テーマ毎の個別単行事典を作ろうというわけである。よく実情を知らないひとは、百科事典から簡単に単行事典ができるように思っているが、実際には、テーマ事典ならそのテーマにそった書き方(百科事典とはちがう書き方)が別途要求され、また記事を追補する必要もあり、さらに新規に入れる項目も数多くあって、意外と手間がかかる仕事である。作業としては、まず百科事典のなかから「マスコミ」関係の項目を網羅的に抜きだしてみた。これはもともと体系的に立項されているので、比較的簡単な作業である。しかし、あとがむずかしい。具体的な切り口が必要なのである。
ちょうどその頃、お付き合いのあった野村雅一氏(国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学副学長も歴任。日本における「しぐさ、身ぶり、ボディランゲージ」研究の開拓者のひとり)と雑談風に話をするうち、言語コミュニケーション、機械メディアのコミュニケーションは誰もが考えるところだが、忘れてはならない柱として「身体コミュニケーション」「face to face communication」があるのではないかというコンセプトをいただいた。
またもうひとつ、当時かなり盛んに出版されていた洋の東西を問わぬ中世の社会史、そして江戸文化史に筆者自身の関心が強く、現にいくつかの本を企画編集中だったこともあり、そこから学んだ事柄として、歴史上にあらわれる「人と人との関係の場、方法、隠れた仕組み」といった問題や、「コミュニケーション史」「メディア史」がさらなる核として浮上してきた。
以上の要素をとりあえず整理すれば
・マスコミ関係(付随していくつかの社会学的観点、現場での実践的観点)
・言語コミュニケーション
・機械メディアのコミュニケーション
・身体コミュニケーション、face to face communication
・歴史にあらわれる「人と人との関係の場、方法、隠れた仕組み」
・コミュニケーション史、メディア史
の6つがコンセプト群であり、とりあえずこれらを基調に百科事典から抜きだせるものは抜きだしてリスト化しつつ、新規立項が必要な項目のリストアップを同時におこなうことにした。
こうした作業を助けてくれたのは、藤田隆則氏(当時は阪大の大学院生で、現在は京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター教授。能の専門家で民族音楽学者)であり、氏は膨大な百科事典の項目群を精力的にチェックして、私とともに初期のリスト化をおこなってくれた。また、例えば新規に立項した「ノリ」の項目は彼の発案で、能におけるノリから現代の「ノリがいい」までをカバーするみごとな内容を、藤田氏自身が執筆している。この段階でのリストは、最終形態(500項目)の2倍ほど、つまり1000項目以上になっていたと記憶する。
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こうして編集部での準備段階が終わり、かねてからその仕事に惹かれていた鶴見俊輔氏をお訪ねし、編者をお願いすることにした。さいわいにも、即座にこころよくお引き受けをいただき、「新しいメディアへの構え」があるひとが是非とも必要だとのご意見で、粉川哲夫氏がもうひとりの編者に加わることになった。粉川氏には、とくにテクノロジーとそこに置かれる身体をどう考えていくかといった問題や、後述の「動詞による項目ネットワーク」などでさまざまなお教えをいただき、そうした過程でこの事典のありようが、より「尖鋭」なものになったように思う。初期の項目表をお渡しして何度もやりとりをし、数回の会合をもって、次第にかたちが明確になっていった。両編者が考える方針にそってぐっと項目が絞り込まれ、新規に入れる項目のほとんどは、この段階で決まっていった。
まず、歴史的な枠組みとしては、
A プリ・マスコミュニケーション(前近代)
B マスコミュニケーション(近現代の大衆社会)
C ポスト・マスコミュニケーション(今後の展望。さまざまな課題など)
の3つに大きく整理されて歴史性が明確になり、マスコミュニケーションが単独で存在するのではなく、「外部」「両側」「過去・未来」を含めた大きなひろがりのなかに置かれるかたちになった。さらに、重要な要素として、「やりとりの場としてのコミュニケーション」「大衆娯楽のコミュニケーション、遊びのコミュニケーション」「子どもと女性の視点」「老人の視点」「敗者の視点」「少数者の視点」「ミニコミという方法」「ネットワークの視点」「身体とハイテクノロジー」などが加わり、また、コミュニケーションが「文化」「社会」「制度」といった枠とどのような関係性をもっておこなわれるのかが、さまざまに話題になり、議論になった。
思い起こせば、この頃は平凡社からサイードの『オリエンタリズム』の邦訳が刊行された時期でもあったが、それに重ねていえば、「文化の力学」「多文化論」の表象形態として、コミュニケーションの位相がさまざまに考えられていたと思う。具体的にはここで政治的な力学も含め、「外人」「指紋押捺」などといった項目が新規に立項されていった。
さて、議論を経たすえにできあがった最終的な要素群を示せば、レベルや表現法のちがいはあるのだが、
1 マスコミ関係(付随していくつかの社会学的観点、現場での実践的観点)
2 少数者の視点、ミニコミ、個の発信
3 言語コミュニケーション
4 機械メディアのコミュニケーション
5 身体コミュニケーション、face to face communication
6 新しいメディアへの構え、身体とハイテクノロジー
7 大衆娯楽のコミュニケーション、遊びのコミュニケーション
8 やりとりの場としてのコミュニケーション、ネットワークの視点
9 子どもの視点、女性の視点、老人の視点
10 歴史にあらわれる「人と人との関係の場、方法、隠れた仕組み」
11 コミュニケーション史、メディア史
12 「文化力学」や「文化混淆論」とからんだコミュニケーション、メディアの位相
の12であり、およそこれらが『コミュニケーション事典』の切り口となった。
この事典は巻末に「マスコミ小事典」なども加え、いわば「ふつうの備え」もみせているのだが、例えば百科事典から流用掲載した網野善彦氏執筆の「宴会」「漂泊民」「もてなし」といった項目と、「電話」「パソコン」あるいは「海賊放送」「ミニFM」「アングラ」などといった項目が同居するのは、筆者にはそれ自体がなかなか愉快なコミュニケーションの光景であり、編者の鶴見俊輔、粉川哲夫両氏をはじめとするさまざまな力が合わさった、類例のない事典だと思っている。編集部の態勢としては、途中から同僚の山本幸史氏(のち、ウィズコミュニケーションズ取締役)に応援してもらい、「マスコミ小事典」ではフリー編集者の芹沢進氏のお世話になった。レイアウト、装丁等のデザイン面では、中垣信夫デザイン事務所が中味に合った良い仕事をしてくれた。
巻頭に入れた粉川氏発案の「動詞による項目ネットワーク」では、「あつまる」に対する「あつめる」のような相互的な力学の位相がよく示されており、事典をスタティック(静的)なものに落ち着かせてしまわないための、これまでにない面白い工夫であったと思う(当初、その意図を小生がいまひとつ理解できず、ご迷惑をかけた)。「つっぱる」「あらそう」「しきる」「つきまとう」といった動詞群は、「みんなでコミュニケーションをとって仲よく」的な建て前の能書きからはでてこない、コミュニケーションの局面を反映していて興味深い。いうまでもなく、喧嘩もストーカーもテロも、ひとつのコミュニケーション行為なのである。そうした様相は個人間だけでなく、国家間、民族間、社会間、文化間の現代的な問題であり、それら抜きのコミュニケーション論はありえないが、そこではもうひとつのありかたとして、「たわむれる」「まじわる」「たむろする」「さすらう」「わらう」などが対置されるだろう。いま見直してみるとますます刺激的に、今日的なコミュニケーションのダイナミクスがそこから浮かび上がり、この事典を象徴する非常に面白いパートになっている。
『コミュニケーション事典』は、筆者自身がひろくコミュニケーション考えるための契機となり、いまもなお思考の原点のひとつとしている大切な書である。なお、現代社会の人間関係や人間心理といった部分は、この事典が必ずしも充分に取りあげ得なかった点であり、また、その後の文化状況、社会状況の変化も大きいゆえ、今後さらに大胆なかたちで、もう一度『コミュニケーション事典』を編集してみたい、そんなことを最近は思っている。(了)
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